吉増剛造,マリリア【葉書Ciné】#3「呼吸の休む隙間の管みたいなところに詩がでてくるんですね…」2020.5.14(Quintafeira)

当動画の編集と運営は、書肆吉成とコトニ社が共同で行っています。

詩人・吉増剛造さんとシンガーソングライター・マリリアさんのgozo’s DOMUSというチャンネルで、 2020年4月30日より毎週木曜日に映像詩「葉書Ciné」をアップしています。

注)
マリリアさんの歌は「ロサンヘレス」(『オシリス、石ノ神』(思潮社、1984))のスペイン語訳。『オシリス、石ノ神』は英訳が1989年、フランス語訳が1999年に刊行されている。

第一回につづいてディラン・トマスのgreen fuseが再び。吉増詩「激つ」においてfuseは、fusion、fusion bombと移行変化していく。
「ニンゲンノ、生キ生キ、トシタ、矛盾ノ〈総体トタリテ〉を〈熔融フュージオン〉ト意識シテイタ」(G・バタイユ『純然たる幸福』人文書院「訳者あとがき」酒井健氏)とその直前に綴られているのだが、このfusionフュージョンについて編集者の樋口良澄との対話で「総合というよりも縫合。…正確にいうと縫い合わせる、縫合。フューズというのは、それに着目して『天上ノ蛇』の冒頭でその詩を書きましたけど、融ける、フューズ、毒、そういう末梢の感覚みたいなものが歩き出したときに、そういう意味での総合とか統合」(『木浦通信』矢立出版、2010、p115)と解説している。

葉書詩「わたくしのようなものさえも」からはじまる葉書詩は2020年5月7日に葉書に書かれた。この詩のなかに「もも、…桃木(モモノキ)、…ゆっくり、宇宙に、 引(ひ)っ掛(かか) って、て、…!」と書かれている。「桃」について吉増詩には白桃、苔桃、夾竹桃などとともにこれまで何度か書きこまれてきているが、なかでも『怪物君』(みすず書房、2016)には「白桃」が擬人化されて「仕様がないわよ、このひと”poil=毛=アフンルパル”思い出してるだけなのね」(p139)と語らせている。アフンルパルは「葉書Ciné#2」に映し出されている。また、同書p87には「、、、、、桃、、、、、僕も、モモ、、、、、、桃乃フネなのよね」とO字形に綴られているのだが、詩人岸田将幸はこの部分に注目し「境界のこちら側の者でもあるし、向こうから流れ着くものでもあって、その間の、境界がゆらぐような場所、いいかえれば永遠とニアミスするような地点に吉増さんは立っているのかもしれない」と分析している(図録『涯テノ詩聲 詩人吉増剛造展』書肆子午線、2017、p275)。
『裸のメモ』(書肆山田、2011)のp61、p82は、折口信夫さんと桃。
なお、リボーンアート・フェスティバル「詩人の家」がある鮎川の「島周の宿、さか井」へ向かう牡鹿半島に、桃浦という地名がある(「現代詩手帖」2020年3月号、連載詩「VOIX/声 Ⅲ ”桃(モモ)は、桃 (モモ) に、遅れ、……!””隅(ア)、ッ、ペ!”」 p116)。
鮎川浜「詩人の家」には吉増蔵書が並ぶ一角があったが、そのなかの一冊に『ディラン・トマス全詩集』(松田幸雄訳、青土社、2005)が含まれていたが、この本のfuseの訳は「導火線」(p34)である。

葉書詩の全文は以下
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わたしのようなものさえも、人並(ひとしな)みに勘定(かんじょう)に入ることになるのね、……と、「統計(とうけい)」なんて大嫌(だいっきら)いなのにと、微笑(ほゝえ)んで居(おり)ましたときに、不図(フット)、…

”もも、…桃木(モモノキ)、…ゆっくり、宇宙に、引(ひ)っ掛(かか)って、て、…!”と声がした。

なにさ、これ、……。”わたしのようなものさえも”のも・が、語(かた)りはじめた、未来の歌だったのよね。……。ゴゾhi
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佃について、私(吉成)の好きなこの部分、紹介させてください。
「わたくしのアパートは佃(つくだ)、月島にあって、高層ビルが建ち、並び、すっかり景色はもう変わっているのに、少し心の眼をそらすようにしてみると、小舟が遊んでいて、夜の櫂の音がする。」(吉増剛造『心に刺青するように』藤原書店、2016、p197)

マリリアさんの歌「ロサンヘレス」に現れる映像は小津安二郎の肖像と『表紙 omote-gami』(思潮社、2008)pp58-59にある佃とオルレアンの庭の二重露光写真。

オルレアンの庭は、フランスの詩人クロード・ムシャールさんの家の庭であり、その家に滞在留学していた作家の小野正嗣は『浦からマグノリアの庭へ』でそこでの生活を描写している。エッセイのなかに吉増さんも登場するのでぜひご覧ください。国文学「吉増剛造―黄金の象」(牧野十寸穂編)ではクロード・ムシャールさんによる『オシリス、石ノ神』論が読めますので併せてどうぞ。

小津安二郎については、
「現代詩手帖」2020年5月号の連載詩「VOIX/声 Ⅴ ”木陰(コカゲ)に、”ユメの庭、……””シシシロシカル!”」p91のなかで「東京物語」で東山千栄子が熱海の潮堤(防波堤)を歩くシーンが想起され、芭蕉と曽良が歩いた北上川添いの「遥かなる堤」と重ね合わされている。

土手の古語を、北アイルランドの詩人シェーマス・ヒーニーは「BROAGH」(ブロッ)というと紹介して、その詩を試訳しているのが『何処にもない木』(試論社、2006)p82である。「つつみに/目をおとせば、目の下に、とりどりに/まばらな雑木の目と葉が貌をのぞかせ/大葉の葉肉のようにもみえるが、斑(ぶち)は」の箇所は、この「葉書Ciné」のマリリアさんの歌のあとの映像に重なるようではないか。

ふと気になって私(吉成)は萬葉集をめくってみると巻第二、210に「堤」がでてきた。柿本人麻呂が亡くした妻をはかなんでいる。「生きていると思っていた時に手を携えて私たち二人が見た、すぐ近くの堤にそびえる欅(けやき)の木のあちこちの枝に春先の葉が一面にしげるように、幾重にも恋した妻ではあったが、……」(中西進『万葉集全訳注文付1』講談社文庫、1978、p151)。

「東京物語」には「お化け煙突」と呼ばれる煙突のシーンがたびたび登場する。 映画のなかで蚊取線香の「煙」も印象的だ。佃の「日の出湯」の煙突は煙や湯気を想起させ、その先端のアンテナ(受信機?)は一角獣の角を思い出せる、というのは言いすぎか。

小津安二郎については吉田喜重との対話エピソードがたびたび著書にみられる。今福龍太との共著『アーキペラゴ』(岩波書店、2006)では映画「東京物語」にでてくる「空気枕」が話題になる。懐中時計に注目した侯孝賢『珈琲時光』を大学の集中講義で見せたこともある。 

さて、長文の注をお読みくださり、ありがとうございました。お礼を込めて今回最後の引用です。

お礼に、桃(モヽ)を、大型バスに、いっぱいに詰めて、送りたい。わたしたちの貧しい心を、透き間に詰めて。グラシアス 『燃えあがる映画小屋』(青土社、2001、p100)